CobaltDiary

宗教(特に仏教),瞑想ヨーガ,思想,雑記など。雑記と書いてある投稿はツイートの延長のようなものだと思ってください。Twitter:@coven_c

「真の幸福とは」

人間は生きていく上で様々な欲求を持ち,それらが満たされることを願う。それらが満たされること(もしくはそれに伴う満足感)を幸福であるとはまずいえるだろう。また,人間は誰しも幸福を求める。これについては異論はないだろう。だが,人によって幸福の定義は様々である。幸福論や人生論を語ることにおいて著者や発言者によって主張が異なることも頷ける。

 

おおよそ幸福の捉え方には2通りがあって,一方は「幸福を感性的な欲求の満足と捉えている人」,つまり人生の目的価値の基準を快楽を求め苦痛を避けることに置き,道徳は快楽を実現させるための手段とする人,いわゆる快楽主義者である。もう一方は「理性に従い自己の人格完成に精神的幸福を見い出している人」,東洋的にいえば悟りの境地や無の境地に幸福を見出している人であり,理性により自己を支配し,克己禁欲的すなわちストイックに生きることを幸福としている人である。

 

私はどちらかと言えば後者の立場をとっており,少なくとも前者を否定する思想を持っている。快楽だけに倫理的価値を置くのは間違えていると思うからだ。これについてアメリカのRobert Nozick氏の著書''Anarchy, State , and Utopia''に面白い問がある。以下が和訳である。

 

【科学者が,人生の快楽を全てシミュレートできるマシンを発明した。その快楽は極めてリアルで本物の快感と区別がつかない。副作用もなく,好みに応じた快楽をプログラムすることも可能である。あなたの体は常にモニターされているため,快楽機械を使用中も健康に過ごすことができる。一回経験したのち,マシンはあなたに数回分の人生以上の快楽を与えることもできるとオファーしてきた。
[問い]: あなたはマシンのオファーを断る理由があるか?】

 

この問いに関して,前者の立場をとる人たちは反論を施すことが出来ない。反論できるとしたらその人は快楽に幸福を見出している自分の立場を自ら否定していることになる。この問いに対して恐らく前者は「実現不可能な仮定であるから考える必要がない」と答えるはずだが,あくまでも思考実験なので必ずしも現実的である必要は無い。

 

更に,前者に対して「自分の幸福や利益に配慮すればする程幸福になれるのか」と疑問を持っている。自分の幸福への追求がかえって目的達成のための障害となってしまう可能性がある(快楽主義のパラドクスというがパラドクスという程の論拠がないのでそう呼ぶのは避けた)


また,後者の多くは宗教信仰があり(ちなみ私はどちらかと言えば仏教寄りではあるが今のところは無宗教である),その宗教的目的に必要な行為に限定しようとする禁欲の基本理念は宗教生活に向けて合理化し,体系化するための動力となる。それは後者の立場をとるための十分条件であると言える。


私を除いても,一般的に後者の立場をとる人は前者を否定する傾向は間違いなくある。なぜなら快楽主義を低次の幸福とするのが後者の立場だからだ。

有徳な生活や行動は直ちには幸福ではないが幸福を受けるに必要十分条件であり,徳と幸福の一致も有徳な生活,行動によってのみ所望できる。

 


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『常識の虜』

こんにちは。

 

早速ですがクイズを出すので少し考えてみてください。

 

[問題]

新品のボトルに入ったワインがあります。しかし,栓抜きが手元にないので飲むことが出来ません。この場合,どうすればこのワインを飲むことが出来ますか。ただし,瓶を割ってはいけません。(制限時間: 30秒)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは「コルクをボトルの中に押し込む」です。少し簡単でしたね。この問題の意図は「常識に惑わされないこと」です。

なかなか答えが導き出せなかったという人は「コルクは抜くものである」という「常識」に惑わされていたのではないでしょうか。それでは答えは導けません。

 

私たちは,子供の頃から培ってきた多くの「常識」を持っていて,それは日常生活では役立つのですが,思考にとってはしばしば約立たずであり邪魔な存在になりえます。

なんの知識も常識もない子供が簡単に解ける問題を我々大人が考えるとこの「常識」が思考の妨げとなりなかなか解けないということがあります。

 

私たちは「常識」にとらわれずに物事を自由奔放に捉え,考えていく習慣を身につけたいものです。 

 

『迷路』

私が小学生だった頃,友達数人と迷路の正解を誰が先に見つけれるかという競走が流行っていました。

 

私も皆と一緒になって考えてたんですけどある日,「入口から考えるより出口から辿っていった方が早く正解を導きだせる」ということに気づいて,それからは完全に私の一人勝ち状態でした。

 

私の一人勝ちが続き,皆も飽きてきた頃に友達の1人が「なぜそんなに早く正解できるの?」と聞いてきたので先程の必勝法を教えたところ瞬く間に広まり,「お前がやっているのはインチキだ」,「それは不公平では無い」といった批判が殺到しました。私は「早く正解を見つけれるかが勝負であって,どうやって見つけるかは問題ではない。」と主張しましたが彼らにはそれが通じず,ついには担任の先生にまで叱られてしまいました。

 

あの時の私のやり方は果たしてインチキだったのかそれとも正しかったのか,昔の記憶を思い出す度に思考の迷路にさまよってしまうのです………

 

「最善」を尽くすための初期思考


あらかじめ言っておきますが,この投稿は完全に私の思想であり,一般的なものではありません。
信じ込まないようにお願いします。
それではいきましょう。
「最善を尽くす」
日常生活でもたまに耳にする言葉ですが,実際にそれを実行してる人はどれ位いるのでしょうか。
このことを説明するにはまず,初めに,「自分の周りからマイナスを取り除くための思考」について説明していく必要があります。
自分の周りから自分にとってマイナスになるものを除くには,「自分がするべきこと」と「自分がするべきでないこと」を明確な判断基準を設け区別する必要があります。感覚で判断するのではなく,明確な基準を設定します。
なぜなら,咄嗟の判断で間違った選択をする可能性は,以前から作り上げた基準(:マニュアル)に沿って行動して間違った選択をする可能性よりもずっと高いからです。
こういった基準は,日常生活を繰り返すことでアップデートします。
このような基準を設けることは自分の行動の大部分を「するべき行動」にするための手助けとなります。
他にも,「するべきでないこと」をしないための思考があるので紹介します。
仏教思想のひとつ,「二諦(にたい)」という考え方で,「2回良くないことが起こったらその行動を諦める」というものです。
(二諦は「真諦」と「俗諦」の二つのことです。真俗二諦ともいいます)
わかりやすく例を挙げて説明してきたいと思います。
例えば買い物に歩いて行こうとして,道で転びかけて(1度目),数分後に車道を走る車にクラクションを鳴らされた(2度目)とします。
この場合,「買い物に行くこと」を「するべきでないこと(俗諦)」と判断し,買い物に行くのを辞めます。
このように,「買い物に行く」という一見普通の行為も,2度マイナスなことが起きると「するべきでないこと」となります。
この考え方を先ほど記載した「明確な基準」に取り入れ,他の基準と重ねて適応すると、自分の行動が20~30%ほど制限されます。
つまり,普段日常的に行う行動のうち,20~30%ほどは「するべきでないこと」に相当すると考えることができます。
「最善を尽くす」にはこれがまず重要なことだと私は考えています。
以上で今回の投稿は終わりです。 最後まで読んでくださりありがとうございました。