CobaltDiary

宗教(特に仏教),瞑想ヨーガ,思想,雑記など。雑記と書いてある投稿はツイートの延長のようなものだと思ってください。Twitter:@coven_c

雑記④ 反論の認識

以前からよく「何事も否定から入る人嫌い」という意見をよく目にしていてなるほど確かにそうだとも思うのだが, やはり疑問も出てくる。

 

印象としては上記のような意見を言う人は大抵「自分の意見には全く反論されたくなく, かつ全面肯定して欲しい」といったある種わがままな考えを持っている人が多いというものがある。あくまでも印象の話ですが。

 

私個人的な意見としては, 自分の意見を述べた時に頭ごなしに否定されるのは確かに好かないが, 反論自体を嫌っている訳では無い。つまり私の話をしっかり聞いた上で自ずと出てくる疑問や反論についてはしっかりと受け止めて, それらを吟味し, 話し合い, お互いの理解が深まれば話し合いにおいてそれ以上良いことは無いと思う。
話を何も理解していないのにただ話を円滑に進めるためにウンウンと頷かれる方が好きではない。

 

相手の話を聞いて疑問と反論を言ったところ(もちろん悪意など全くない), 「お前は優しくない, いじわるだ」 という評価を受け困惑することがしばしばある。言い方には気をつけているつもりではあるのですが・・・

 

私は以前競技ディベートをやっていて反論を受けることには慣れているので感覚が鈍っているのかもしれない。そうでない方は自分の意見に疑問,反論をぶつけられることに「攻撃されている」と認識するのだろうか。確かに自分の意見に100%の賛同をされることは反論されるよりは気持ちいいことだろうし, そうしてくれる人を「優しい」と認識するのは何となく理解できるがそれはあまりにも視野が狭すぎる。また, そのように思う人で私のこの投稿に疑問, 反論がある方はぜひ聞かせて欲しい。

 

少なくとも話し合いや意見の述べ合いにおいては相手の意見に100%賛同した所で何も生まれないし, 意見が100%噛み合うような人とは話し合いをする必要なんてないのだからその話し合い自体無駄だと言えるだろう。

 

大切なのは「頭ごなしの否定」と「反論」をしっかりと分別し,使い間違えないようにすること, またそれらを言われた時は相手がどちらの意図で言っているのかをしっかり認識するべきだと思う。

雑記③ 善行と偽善と

他人に対しての善行はだいたい以下の4通りに分かれる。


①エゴ(偽善) : それをすることで自分に利益がある善行
②スーパーエゴ(偽善) : それを行わないと自分に不利益があるために行う善行
③真善(善) : それをすることで全く自分に利益がない善行
④極善(善) : それをすることで自分に不利益があるが善行

 

例を挙げるなら
① 学校で席が隣の子が落とした消しゴムを拾ってあげた(拾ってあげれば自分の評価が上がる)
② 電車で席に座ってる時に目の前におばあさんが現れたので席を譲った(席を譲らないと自分が悪者になってしまう)
③ 怪我してる野良猫を看病してあげた(それをやることで直接的に自分に利益はないが善行である)
④ 災害時の義援金として趣味に使う予定だった自身の貯金を差し出した(自分にとっては損であるが善行であることは自明)

 

重要なのは自分がどう思って行動したかではなく,結果的にどうなったのかを客観的に判断することである。
勘違いしないようにしたいのは, それがエゴ,スーパーエゴだとしても,つまり偽善であっても善行である以上行うべきであるということ。真善,極善という言葉は私が勝手に設定した造語だから使っても一般的には通じないのであしからず。

雑記② 筋トレ

筋トレをある程度やってきて得た結論

 

①自分に自信はつくか。→つく。明らかに強くなるから。

 

②鬱に効果はあるのか。→どちらとも言えないが鬱を治す目的で筋トレするくらいなら心理療法としての瞑想やった方が効率良い。失敗しないし。

 

③モテるか→わからない。女性体との接点がそもそもそんなにないから。やらないよりはストイックさとか健康意識みたいなのが評価されることは多いのではないでしょうか。少なくとも男からの支持はアツくなる。

 

④効果はどれくらいで出るか。→効果を実感するのは2週間後から。正しくトレーニングして正しい生活すれば3ヶ月後には明らかに体は変わる。体を作るものは食事なんだから食事が一番大事だという認識は持つべき。あと睡眠。

【ヨーガについて 調気法の解説】

ヨーガ(ヨガ)と聞くと体操,それに加えて多少の呼吸法というイメージを持つ人が多いのでようですが, インド発祥の本来のヨーガは「心のコントロール」という意味です。日本だと禅の考えがそれに近いです。

【ヨーガ行法の位置づけ】
①戒律 : 日常生活を正すこと。各伝統によって戒律は異なるのでここでは省略します。
②身体行法 : アーサナ(体位,座法), プラナーマーヤ(調気法,)
③瞑想
このように段階を踏んで実践していくのがヨーガです。②の身体行法が主に日本に伝わってきたというわけですね。それぞれについて少し解説します。
①について,心をコントロールするには正しい生活,行動がまず第一に大切だということです。②について,アーサナを組むということは長時間の瞑想に耐えることが出来ます。またアーサナを組むと背筋が伸びるので良い(呼吸の)気道が確保できます。③以上を踏まえて実践すること。知識としては理解していても実践しないと何の意味もありません。実践し,実感することに意味があります。

 

【調気法の実践】
今回は初心者でも実践でき,さらに熟達すると高度な瞑想にも用いられる調気法を紹介します。
まず鼻をかんできてください。スッキリしたら指で鼻の片側を閉じて息をシュッと音が鳴るくらい吸ってみましょう。両方の側で行い,どちらが鼻詰まりにより呼吸しづらいか確認します。右の気道は交感神経が通っているので,右が慢性的に詰まっている人は怒りっぽい性格だったり,常にイライラしたり焦ったりしていることが多いです。左の気道は副交感神経が通っているので, 左が慢性的に詰まっている人は集中力がなくボーッとしていたり,常に眠気を感じていたりします。
今回はこの詰まっている方の側の鼻で呼吸を行います。


呼吸の仕方を説明します。
①まず背筋を伸ばして座り真正面を見るように首の位置を決めます。下を向いたり上を向いたりすると気道が曲ってしまうので良くありません。
②利き手の人差し指,中指を額の眉と眉の間に軽く置き,右利きなら, 左側を押さえたい時は薬指と小指を使い,右側を押さえたい時は親指を使います。そして瞑想中は人差し指と中指に精神を集中させます。手が疲れたら逆の手を使って良いです。
③4秒掛けて音が出るくらい強く吸って,4秒呼吸を止めて,4秒掛けて出します。

 

慣れてきたら以下のように実践しても良いです。
①②は同じ。左穴から吸って左穴から吐く,次は左穴から吸って右穴から吐く。これを交互に行います。これは左気道の調気法です。左右逆にしても効果があります。
そして4秒掛けて吸い,8秒止めて,8秒掛けて吐きます。

 

ポイントは顔の位置を決めてからその位置をズラさないこと。手の力で動いてしまう人がいますがそれは良くありません。

 


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雑記① いただきます

「例えば」食事をする時,その食べ物が美味しいか美味しくないかなどの快楽に集中している人は視野がとても狭いです。より視野の広い人は「いただきます」と言います。「いただきます」には食べ物の命を頂くことや,その料理を作ってくれた人への感謝の意味が込められています。つまり自分の快楽のことにしか目を向けることの出来ない人は視野が狭いと言えます。そして,さらに視野の広い人は「いただきます」の言葉の中に「命をいただきます,そして私が死んだらそれを返します」という意味を含めます。
人はいつか死に,その身体は地に還ります。そしてそのまま土となったり,もしくは草木となったりもするでしょう。視野のとても広い人はここまでの思考のプロセスを辿り,「いただきます」と言います。

 

「広い視野を持つ」日常でもたまに聞くフレーズです。誰もが広い視野を持つことが重要であることは理解できる。しかし,それをどう実践すれば良いのか理解している人はほとんど居ないし,それを実践できている人はほんの極一部です。言うは易しということです。

マインドフルネス瞑想について(前編)


マインドフルネス,恐らく1度は聞いたことがあるでしょう。現在ではGoogleFacebookなどの大企業が採用したり,うつ病心理療法として用いられるなど,マインドフルネス瞑想がより一般的になってきたのではないでしょうか。

 

今回はマインドフルネスの意味や、その本質について説明していこうと思います。次回はマインドフルネス瞑想の効果やその実践などについて説明しようと思います。


マインドフルネス瞑想の意味は,学者の定義では「今この瞬間,何かの対象に対して善悪の判断をせずに,意識せずに注意を向ける」です。私たちは日常で何かに意識を向けた時無意識に善し悪しの判断をしますが,それをせずにただじっと集中させるということです。ポイントとしては①過去や未来に意識を向けずにたった今この瞬間に意識を向け,集中すること。②善悪や好き嫌いの判断をせずにただ純粋に集中すること。です。

 

マインドフルネスを日本語に訳すとおよそ「気づき」などとされることが多いですが,これには悪い点があります。be mindful ofで「〜を注意している,〜を忘れないでおく」という意味ですからマインドフルネスには「気づいていること」の他に「〜に注意していること」という意味があるのでマインドフルネスには「気づき」以上の意味があります。

 


マインドフルネス瞑想の本質について説明します。先ほどと繰り返しになりますが,マインドフルネス瞑想は「対象に善し悪しの判断をしない」ということが重要です。瞑想をしていて雑念が出てきた時に,それが悪いものであると認識せず,かと言ってその雑念を追ったりすることもせず,ただそれを客観的に見つめる。それが重要です。マインドフルネス瞑想では,自分の思考や感情に距離を置き,客観的に見つめ,そしてその客観的に見ている自分(メタ自分)を本来の自分としています。つまり,マインドフルネス瞑想の本質は「自分の思考や感情は自分の本質ではない」ということです。

 

ではなぜマインドフルネス瞑想が心理療法に用いられるのでしょうか。最もな理由としては,「マイナスな思考や感情が出てきた時に,その打撃を直接受けない」からです。普通の人は自分の思考や感情が自分の本質だと認識しているので,マイナスの思考や感情が出てきた時にそれに没入し,その100パーセントを受け止めるしかありません。しかしマインドフルネス瞑想では自分を客観的に見る自分に本質があるというわけですから,直撃を避けることができます。

 

 

ここでマインドフルネス瞑想の考え方は仏教やヨーガとよく似ていることに気づきます。そもそもマインドフルネス瞑想は禅の教えから来ているのですから仏教やヨーガの考え方に近いのは納得いく話ですね。
仏教においては心は無我,つまり心は自分の本質ではなく本来の自分など存在しない としております。 一方,ヨーガでは自分を超越し,自分を客観的に認知する(メタ認知)自分が真我であって心は真我ではないという考え方です。仏教とヨーガで一見対立しているように見えますが,心は自分の本質ではない という見解に関しては双方一致しています。ちなみに釈迦は真我について否定も肯定もしていません。

 

 

以上で今回の投稿は終わります。最後まで読んで下さりありがとうございました。質問や意見,感想などあればコメントかTwitter @coven_c にDMを送ってください。

 


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「輪廻転生 基礎の基」

輪廻転生(りんねてんしょう,りんねてんせい)という思想があります。日本だとこの思想は仏教独自の思想であるかのようなニュアンスを持たれることが多いが,古代インドのバラモン教(ヒンズー教の源流),古代エジプトなど仏教が創始される以前から存在する思想です。

 

今回は輪廻転生を以下のような章に分割して説明していきます。
第1章 輪廻転生の意味
第2章 輪廻転生の起源
第3章 輪廻には何が引き継がれるのか
第4章 仏教における輪廻転生
第5章 輪廻は本当にあるのか

 

[第1章 輪廻転生の意味]

 

まず,輪廻転生の意味について説明していきます。まず辞書的な意味だと輪廻転生は「死んだ後に何度もこの世に生まれ変わる」という意味です。また,輪廻転生は輪廻と転生の2つの語が合わさった言葉で輪廻は「生まれ変わる先は人間とは限らず,動物や虫などにも成りうる」という意味で使われることが多いです。そして転生は「生まれ変わる先が人間のみに限定される」という意味で使われることが多いです。輪廻の語源はサンスクリット語サンサーラ(संसार)で,リンネという読みは連音によります。これは「流転」というニュアンスが強いです。転生は英語のReincarnationの訳語です。これは「再生」というニュアンスが強いです。

 

 

[第2章 輪廻転生の起源]

 

輪廻転生の起源は古代インド(仏教誕生以前のインド)に遡ります。古代インドではバラモン教(後のヒンズー教)が伝統的な宗教として広まっておりバラモン教では輪廻という言葉は用いられませんが,「五火」「二道」という言葉で生まれ変わりの理念が表現されています。また,バラモン教での輪廻転生では「業(カルマ)の法則」というものが基本です。カルマとは生前の行動,行いのことを指します。
バラモン教では上から順にバラモン,クシャトリヤ,バイシャ,シュードラと続くカーストによる身分制度を重要視しており,バラモン教にとって輪廻転生の考え方はその身分制度を裏付けるものでした。まず,古代インドでは生まれ変わる先は生前の行い,すなわちカルマによって決まるとされていました。これを「因果の法則」といいます。つまりシュードラに生まれ変わった者は生前の業が悪かったからでありバラモンに生まれた者は業が良かったからであり身分の違いは当然のことである,といった感じで生まれ変わりの考え方は身分制度の正当性を固めるものとなったのです。

 

 

[第3章 輪廻には何が引き継がれるのか]

 

ヒンズー教(バラモン教)では,人間には肉体とは別に存在する霊魂(アートマン)がありそれが引き継がれるとされています。また仏教では永久不変の自分は存在しないとし,自分の心や意識が姿かたちを変えながら生まれ変わっていくとされています。この考え方は仏教独特のものです。

※「霊魂(アートマン)」とは肉体とは別に存在し,死後も存続すると考えている非物質的な存在。

 

 

[第4章 仏教における輪廻転生]

 

まずは仏教が創始される流れを少し説明します。仏教開祖のゴータマ・シッダッタはシャカ族の王子として生まれ,29歳で出家。そして森で6年間に渡る苦行を行い,苦行では最高の智恵(=悟り)を得れないと考え,ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し35歳で悟りを開きました。ブッダとなり人々に教えを説き,仏教となりました。また,ブッダは人間はにおいて苦悩がなぜ発生するのか,またそれをどうやって取り除くのかを特に探求しました。あらゆる苦悩は執着から生まれ,執着は無明から生まれます。必要のないものに固執し,不必要に求め,無明故に幻影の世界が作られ,それに欲望し,執着する。これが煩悩の正体にほかならないとしました。仏教では煩悩の発生を抑制し,輪廻から自由になること(=解脱)を至上目標とします。
ブッダは輪廻の正体は五蘊(ごうん)であるとし,これは「色」「受」「想」「行」「識」の五つの要素から成ります。「色」は色かたちあるもの,つまり物質。人間だと肉体のことです。「受」は感受作用,五感を通して感じる肉体的感覚や快,不快など,もしくはそれらを生成するシステムを指します。「想」は想念,つまり何かをイメージすることを指します。「行」は形成力,つまり心のエネルギーに形を与える作用を指します。例えば何かを論理的に思考したり,何かに集中したりする力のことです。「識」は認識,判断のことで,物事を総合的に認識し,価値や善悪を判断する機能です。ブッダは我々が「私」と思っているものはこの五つの要素の集合体に過ぎないとしました。これは,「私」というものがまずあって,それを分解したら五つになった,ということではなく,「私」だと思っているものはそもそも五つの要素が集まっただけのものに過ぎないと言っているのです。また,仏教では死後の生まれ変わり先を天道,人間道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道の六道としていて,これを六道輪廻といいます。生まれ変わり先はやはり業で決まります。ブッダは地修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道が苦しいのはもちろんのこと,人間道も天道も病老死の苦しみは避けられなく,避けられない苦しみがあるということは苦しい,すなわち輪廻は苦しいものだと説き,その苦しみから開放される唯一の方法が修行し悟りを開くことであるとしました。

 

 

[第5章 輪廻は本当にあるのか]

 

輪廻の存在を証明することは極めて難しいです。瞑想家や宗教家は自身が深い瞑想で仮死状態になることを経験すると,つまり本当に死んではいないが自分にとってはほとんど死に等しい状態になると,その時の体験が本当のことであるかもしれないと考え始めます。実際私自身も深い瞑想や宗教的体験でそのようなことを体験しましたし生まれ変わりを深く信じています。
また,イアンスティーブンソン氏がヴァージニア大学で行った生まれ変わりが存在するか否かの研究では,前世を語る子供2600人を調査し,その事実確認の突き合わせ作業を行った所,約7割が事実と一致しました。しかしこれは地球上にいる70億人のうちの数千人の話ですから一般性はないという反論もあります。また、世界的にも著名な科学者であるカール・セーガンは輪廻転生について「私は信じないが,調べてみる価値はある」という姿勢を見せました。まとめると,輪廻転生があるという確証もなければ,ないという確証もない,つまり輪廻転生を信じることも信じないことも出来る となります。


以上で今回の投稿は終わります。最後まで読んで下さりありがとうございました。他に書いて欲しい記事のリクエストや質問,感想などあれば私のTwitter(@coven_c)にDMしてください。

 


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